No.073 / 2025.10.21
INFORMATION
無駄のない機能美に魅せられて――DUPON35の原点

軍や航空機で使うものや工業製品には、無駄のない美しさがある。そのモノの成り立ちには、すべて理由がある。
そんな“機能の美”を、暮らしの中に落とし込む。そこに、ほんの少しの遊び心や可愛らしさを添えて、
日々の生活がちょっと楽しくなるような道具を提案する。
それが、〈DUPON35〉の、もの選びの基準です。

小学生の高学年のころから、ずっと“無駄のない機能美”に惹かれてきた。
装飾ではなく、目的のために形が決まっていく世界。
軍用の装備や航空機は、まさにその究極だった。一切の飾りがない。
そこにあるのは、必要と判断された構造だけ。
無駄がないということは、強く、美しいということでもある。
だから、小学生の卒業文集には「将来の夢は軍のパイロット」と書いている。
あのころから今日まで、自分の“好き”の根は変わっていない。
機能が形をつくり、形が美しさになる。
その感覚が、自分の原点であり、今の仕事の礎でもある。

中学を卒業した15歳の春。進学は迷うことなく神奈川県横須賀市にある少年工科学校へ進んだ。
ここは自衛隊の高校であり、将来の陸上自衛隊の技術者を育てる場でもある。
そして同時に、自衛隊パイロットの供給源でもある。毎期1クラス約30人は20代半ばまでに陸海空の自衛隊パイロットになる。
特に陸上自衛隊のヘリコプターパイロットの8割は、この学校の出身者だ。まさに自分の夢の実現に一番近い進路。
17歳、高校3年生の時の東富士演習場での訓練中、怪訝そうな顔で缶メシを食べている自分の隣に写っているのは、同期のひとり。
彼はその後、海上自衛隊で対潜哨戒機のパイロットとして定年まで勤め上げた。

パイロットの試験は20歳から受験可能。自分も当然パイロットを目指しパイロット試験にチャレンジした。
だが悲しいことに年齢制限がある限られたチャレンジの中、適性試験に受からない。
パイロットは適性がすべて。諦めざるをえなかった。

話は少し戻り、15歳から4年間を過ごした横須賀には米海軍の基地いわゆるベースがあり
当時は自衛官の身分証明書でベース内に簡単に入れた。ベースの中はまさにアメリカ。
広大な敷地の中には学校からボーリング場、映画館、信号機、消火栓、PXからハンバーガーショップまでアメリカの街がそこにはあった。
今から40年前の昭和57年、富山の田舎から出てきて外国人なんて見たこともなかった自分だが、
そこからアメリカのカルチャーにも猛烈に興味がわく。『わぉ!なんてかっこいいんだ』

自衛隊の学校に入るということは、15歳で公務員になるということ。
当然、給料も支給され40年前の当時で中学校を卒業したての子供ながら年収はおよそ160万円。
衣食住ほぼ無償。代償として全く自由がなく月に3回、日曜日だけ外出できる刑務所のような寮生活だけれども。
そのころから洋服にも興味がわきはじめ、外出できる日曜にはよく東京へ出かけた。
古着なら神宮前の地下にあった〈シカゴ〉。
アメカジはキャットストリートの〈SURPLUS〉。
軍物は代官山の〈マッシュ〉が定番だった。
お金を持っていたぶん、毎月かなりの洋服を買い込んでいた。
〈SURPLUS〉では、駐留アメリカ軍人向けのFENラジオが流れていて、店内にはアメカジの世界がぎっしりと詰まっていた。
〈マッシュ〉は、軍の放出品であるピーコートやフライトジャケットが整然と並ぶ洗練された空間。
軍物を“ミリタリーオタクのもの”ではなく、“おしゃれなファッション”として再定義していた。
軍の道具を、実用ではなくデザインとして捉える視点。
その感覚に、強い衝撃を受けた。
——こんなかっこいい世界もあるんだ。

自衛隊での生活は嫌いではなかった。むしろ自分の性格には合っていたと思う。
けれど、パイロットの夢は叶わず、長い人生「15歳から自衛隊だけしか知らない人生でいいのか」と自分に問いかける日々が続いた。
一度きりの人生、ちょうど自衛隊に勤務しながら通っていた夜間大学を卒業するタイミングで退職を決意。
次は、自分の“好き”を形にしてみたいと思った。
興味のあったファッションやアメリカンカルチャー、そして原点である軍物の世界。
そこに、自分なりの機能美を見出したかった。
自衛隊を辞めて8年ぶりに富山に戻ったそんな頃に妻と出会う。当時からおしゃれでかわいくて普通の人とちょっと違った。
そんな妻がこんな自分に興味を持ったのは当時ヤンキーが流行の最前線の中、乗っていた車がイタリア車のアウトビアンキだったこと。その“ちょっとの違い”だったらしい。
趣味はまったく違ったが、お互いの“好きなもの”を理解しあえる存在だった。
代官山の〈マッシュ〉に一緒に行ったとき、「こんなお店をやってみたい」と夢を語った。
——「じゃあ、やってみよう」
その一言から、すべてが始まった。

1998年7月11日。結婚記念日。
この日に、ファッションとしての軍物と子ども服のアメリカ古着を扱う店として〈CPSTORE〉を創業した。
そこが、すべての始まりだった。
1998年 軍物とアメリカ古着の子ども服〈CPSTORE〉
2001年 アメリカ買い付け雑貨店〈STANDARD PLUS〉(半年で閉店)
2003年 雑貨店〈DUPON35〉
2004年 レディスセレクトショップ〈COTON〉
2007年 ミナ ペルホネン パートナーショップ〈kuukukka〉
2009年 セレクトショップ〈MaTiLDe〉
——2001年、自分がディレクションした〈STANDARD PLUS〉をオープン。
PACIFIC FUNITURE SERVICEはこの時から取引をはじめた。
しかしアメリカに行って買い付けたFIRE KINGなどの雑貨は、当時ほとんど誰にも響かず、半年で閉店。
当時のインターネットのない世界でニッチな商品でお店を維持するのは難しかった。全く売れない。
その失敗から自分よりセンスのある妻のディレクションを優先するようになり、気づけば、レディスのセレクトが店の中心になっていった。
ビジネスの観点からみてもそれが正解だったと思う。自分は長い間、経営者として裏方にまわることになる。
妻の“好きなもの”はほぼ共感できるので裏方に徹するのは苦ではなかった。

1998年に店を始めて、気づけば27年。
2024年、長くメインブランドだった〈ARTS & SCIENCE〉が卸売事業を終了したことで、当店での取扱いも終わりを迎えた。
洋服や雑貨を取り巻く環境は大きく変わり、これまでのやり方にとらわれていては洋服のセレクトショップは存続できないと感じている。
自分たちももうすぐ60歳。
いろいろな要因も重なり、無理に時代のスタイルに合わせて続けていくよりも、お互いがそれぞれ“自分のやりたいこと”をやることにした。
衣料品の取り扱いをほぼ終了するという大きな決断をし、妻はもともと栄養士で、〈衣〉と同じくらい〈食〉が好きだったこともあり、
会社を離れ、一人で〈TODD〉を立ち上げ、“食”の道を歩きはじめた。
自分は〈DUPON35〉を、無駄のない機能美に外国のカルチャーや遊び心を重ねた店として、もう一度、再編集していくことにした。
それは、10代のころからさまざまなものに触れ、刺激を受け、ずっと思い描いてきた“理想のかたち”の実現でもある。
今はまだ理想にはほど遠いけれど、10数年ぶりにお店に立ちながら、少しずつ自分の思う店に近づけていきたい。
●生活の道具に落とし込める無駄のない機能美のあるもの見つけて紹介していきたい。
欲しいものがなければ、自分で作ってみたい。
●国内外を問わず、カルチャーを感じる面白さや味のある古いものを紹介していきたい。
●そして、思わずクスッと笑えるような“ゆるい美しさや可愛さ”のあるものも大切にしたい。
近い将来、しばらく途絶えていた海外での買い付けも再開したいと考えている。
わざわざ山の中まで足を運びたくなるような、
そんな“理由のある店”であり続けるために。
これからのDUPON35に、どうぞご期待ください。

